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 『灯』抜粋


 平成29年度には山口高校通信制課程を修了し、114人が巣立っていきました。卒業生一人ひとりがそれぞれの思いをもって入学し、在学期間に長短はあるものの目標を達成して卒業していきました。自らの意志で計画的に学習を進める必要のある通信制課程では、「学ぶ意欲」を持ち続けることが最も大切です。また、友人、家族や職場を含め周囲の多くの人々の協力も必要です。

                

                                        

 本校通信制の卒業記念文集「灯」には心打たれる経験や思いがつづられています。通信制課程や生徒諸君の頑張る姿を御紹介したいと考え、その一部を掲載します。

 
                          雑草根性

 入学して早六年。ようやく卒業できる目処(めど)がたちました。文章に自信ないのですが、人生の節目に自分を振り返る良い機会と思い、ここに今の私に辿り着く経緯(いきさつ)を書き連ねてみます。溢れる思いに言葉の追いつかないもどかしさもありますが、拙い文章に暫しお付き合い頂ければ幸いです。
 八年前の冬、当時中学校二年生だった私は何かと悲観的で、他人と関わることを極端に恐れ、学校にも行かず、戸外はおろか自室から一歩も出ない、カラに閉じ(こも)った生活を続けていました。きっかけはごく些細な事でしたが、やがていじめに発展し、次第に人間不信、自己嫌悪に陥りました。精神的に最も衰弱しきっていた時期で、症状の悪化に伴い連れて行かれた病院での診断は、「鬱病」と「摂食障害」でした
 中三になり新たに担任となった先生は、一言で例えると松岡修造。「もっと熱くなれよォ!」と言わんばかりに頻繁に自宅に押し掛け、目前に迫る進路について熱心に教えてくれました。その際に勧められたのが山口高校でした。メインは自宅で取り組むレポート、週一で実際に先生に教えてもらいながら勉強できる…ということで、そのくらいのペースなら通えそうだなと思い、入学しました。しかし、いざ始まると、持ち前の頭の悪さと怠け癖が災いして、スクーリングどころか、レポートすら「中学校の勉強もしていないのに、こんなの無理」と投げ出す始末。見かねた母はNHK高校講座をDVDに録り溜めてくれたりと、様々な手を尽くしてくれますが、将来のことなど一切考えていなかった私は、結局中学生の頃と変わらない引き篭り生活を続けていました。ところが、ここで私の人生を大きく変える出来事が起こります。
 「まぁ逃した分は来年辺りにでも併せて取ろう。本腰入れて勉強するのはまだ先でいいや。」なんて安易に考えていた矢先、母に癌が見つかり、入院することになりました。既に末期、治療も虚しく、私はこの時初めて親の死に直面しました。娘の卒業を心から願っていた母、私の体を気遣いながら、いつもそばにいてくれた母……、言葉にできぬ悲しみは、いつしか心を奮い立たせる原動力となっていました。成人後の就職の心配までしてくれていた母の思いに報いたい、今となってはただ一人の家族、母に代わって勉強をみてくれる父と二人三脚で頑張ろう。人と関わるのが苦手な私が働くようになり、学校では友人とも巡り会いました。多くの人に支えられながら挫けそうな自分を励まし、この度山口高校通信制を卒業することになりました。六年間……怠け者の過去の自分を憎むこともしばしば。その度に母の顔が浮かび、「意地でも卒業してやる。」と頑張れました。親孝行どころか、反抗期の私は酷い言葉を投げつけてしまった。今、母の面影に伝えたい。「少し時間はかかったけど、やっと卒業できるよ。働き口も見つかったし、生涯を共に歩める大切な人とも巡り会えた。もう何も心配しなくていいからね。今まで、本当にありがとう。」そして、山口高校で学習の手ほどきをしてくださった先生方、今までお世話になりました。

                                                                   H28年度卒業生

忘れ物

 雨が降っていた。
「久保田君」
 聞き慣れたその声に、私はぎょっとして振り返った。担任のA先生だった。その前日に、私が合格した高校の仮入学があったのだが、私は誰にも連絡しないまま、欠席したのだった。A先生がそのことで来られたというのはすぐわかった。当時中学三年生だった私は家庭の事情で建築業を営む親戚の家にやっかいになっていた。卒業が間近に迫ったある日、私は親戚から「おまえは高校に行かせられん。仕事を手伝ってくれ。」と告げられた。他に選択肢はなかった。私は、夢だった高校進学を断念しなければならなかった。ただ、入学試験だけは受けさせてほしいと頼み込み、地元の高校を受験した。もちろん、自分の力を試したかったのも事実だが、同級生の全員が私が進学すると思っていたので、入学試験が終わるまでは皆に精神的な動揺を与えたくなかった、というのがその本当の理由だった。結果は合格。けれども私の心の中は複雑だった。
 −俺の人生なんて、もうどうでもいい−
 半ば投げやりな気持ちのまま、がむしゃらに親戚の仕事の手伝いをした。とにかく体を動かして、少しでも学校のことを忘れたかった。A先生が私を捜し当てて来てくださったその日も、雨でびしょ濡れになりながら、近くの工事現場で私は働いていたのだった。
 「もう、気持ちは変わらんかね。」
 すべてを察知したように、穏やかな顔で尋ねるA先生に、私はうつむいたまま「はい」と答えるのが精一杯だった。A先生はさらにせっかくよい成績で合格したのにもったいない、今晩よく考えて、明日必ず連絡するように、と付け加えて帰られた。A先生の言葉はありがたかったが、いくら考えてみたところでどうしようもないことだった。あまりの自分の無力さに、その夜、布団の中で私は涙が止まらなかった。次の日、私はA先生に「やっぱり高校には行きません。」と電話で伝えた。
 私が初めて通信制について知ったのは、それから二年後のことだった。この頃にはもう、私も親戚の家から出て、家族が一緒に暮らせるようになっていた。
「働きながら高校を卒業できる。」
 当時の私にとっては、まるで夢のようだったこの言葉に惹かれ、その年の春、私は山口高校通信制に入学した。しかし、現実はそう甘くはなかった。1年目こそ何とか努力賞を受賞することができたが、その後は生来の怠け癖が頭をもたげ始め、父の死など、家庭環境の変化がさらに拍車をかけた。自学自習とは、まさに自分との戦いなのだ、ということを嫌という程思い知らされたのだった。私は次第に、通信から遠ざかっていった。そうして、さらに二十数年が過ぎた。その間に私は結婚し、一男一女を得、仕事では左官工事や外構工事、基礎工事などを自分で手がけるようになっていた。職人の世界には、知識と経験さえあれば、学歴は不要だ。私自身、中卒だからといって仕事の上で困ったことは一度もない。日々の生活に追われるうち、私は自分が高校を卒業していないことや通信のこともすっかり忘れてしまっていた。それが息子が中学に上がったのを契機に、子供より先に高校を卒業したい、と思うようになった。その思いは日を追うごとに大きくなり、私は、もう一度通信に挑戦しようと決心した。妻にこのことを話すと、「すごいね。頑張ってね!」と快く賛成してくれた。そして息子が中学三年になった年に、私は再び山口高校通信制に「新入生」として戻ってきた。ゼロからのスタートだった。
 あれから三年。ついに今、私にはずっと遠い存在だった[高校卒業]が現実のものとなった。思えば、本当に充実した高校生活だった。努力賞を連続して受賞したこと、数学Aと生物Tで満点をもらったこと。生徒総会で発言したこと、球技大会で優勝したこと。文化祭で弾き語りをしたことなど、思い出を数え上げればきりがない。楽しかったことばかりではない。レポートで再提出を何度もしたこと(時には再々提出をしたこともあった。)英語で先生の質問に答えられなかったこと、体育でバレーボールが上手にできなかったこと、テストで思うように点が取れなかったこと、こんなことさえも今では良い思い出だ。ひょっとしたら、私は今回の入学で、思い出の「忘れ物」を取りにきたかったのかもしれない。出会いにも恵まれた。的外れな質問ばかりする私に、いつも丁寧に答えてくださった先生方、また、年齢は違うがすばらしい仲間たちと出会えたことは、私の一生の宝物となるだろう。そして最後に、私が家で勉強に集中できる環境を作ってくれた妻と、応援してくれた子供たちに、心から感謝したい。

                                  H18年度卒業生

                        思い出                             
                                       

 幼い頃、私はひどい問題児だった。しょっちゅう悪ふざけをしては、その度に親に苦情が入っていた。小学校へ入学してからは、私の悪戯はさらにエスカレートしてゆき、工事現場の生乾きのコンクリートを踏み荒らしたり、歩道橋の上から車道に岩を落としたりして私も叱られたが、両親にもいつも苦情の電話が入り、私は両親から疎まれていた。
 ある日いつものように学校から父に苦情の電話が入り、とうとう父は激怒して、私に学校へ行くなと言った。私が小学校2年生の時だった。その翌日から私は言われた通り家に閉じ籠もって、大人しくしていた。私は学校へ行きたいとは思っていたのだが、父から許しが出るまでは家で大人しくしていようと思っていたのだ。しかし父からの許しが出ることはなく、母はその以前から育児ノイローゼで入院しており、家にはいなかったので、私は誰にも学校に行くように促されることがなく、私自身も2週間、3週間と時間がたつにつれて学校へ行きたいという気持ちや、友達に会いたいという気持ちが薄れていき、自分から学校へ行きたいと言い出すのが面倒になっていた。まあいいか。そのうち誰かがなんとかしてくれるだろう。当時の私はそう考えていた。
 10年が経過して、私は18歳になっていた。
 結局自ら復学をしようとしなかった私は、10年間家に閉じ込もり続けていた。10年間社会活動を放棄してきた当時の私は、言葉の発音も満足にできず、漢字を書くこともできず、動作も極端に遅く、たとえば服の着替えをするだけで1時間以上かかるほどだった。その当時の私には何の能力もなかったが、それでもこのままではいけない、社会に出て仕事に就かなければ生きていくことができないという危機感は持っていた。そして18歳以上であればほとんどのアルバイトに就くことができるので、私は18歳になってすぐアルバイト探しを始めて、ある店で店員になることができた。その店の店長は、全く仕事のできない私に根気よく仕事を教えてくれたので、私は初めてのアルバイトをクビにならずに続けることができ、少しずつ社会に適応できるようになっていった。
 やがて私は工場に就職してフルタイムで働くようになり、自力で生きていけるほどの安定した収入を得られるようになって、一応の社会復帰を果たすことができた。しかし、このときの私はまだ能力面で人より劣っており、工場の他のスタッフから叱られることが多かった。そして何よりも私自身が、10年もの間学校へも行かず、人付き合いもせず、家に閉じ籠もっていたことによって、人間として根本的な部分で人よりも劣ってしまったのではないかという思いにさいなまれていた。心にぽっかりと空いた10年分の空洞は、この先一生消えることはないだろう、この時の私はそう思っていた。
 ある日、私は運送会社に転職して収入に余裕ができたので、何か学校教育を受けてみようと考えた。一般的な教養を持っていなかった私は、一度きちんとした教育を受けてみたいと思っていたのだ。県庁に問い合わせると、この山高通信制を紹介してもらえた。夜勤ありのシフト勤務で働く私にとって通信制の存在はとてもありがたいものだったが、反面、レポートの月2〜3回のスクーリングはだけでちゃんとした学習ができるのだろうかという不安もあった。ともあれ、平成17年4月、私は21歳にして高校入学を果たした。レポートを書くのは楽しくもあり、面倒くさくもあった。順調な時はレポートがどんどん進んだが、一度面倒くさくなると仕事とテレビゲームばかりして、何週間もレポートが進まないこともあった。それ故締め切り間際で冷や汗をかきながらレポートやテスト勉強に取り組むことが多かった。幸い単位を取りこぼすことなく3年で卒業できる運びとなった。
 今になってこの3年間を振り返ると、私は山高通信制で多くのものを手に入れることができたと思う。まず、漢字を書けるようになったこと。私は入学当初、印刷された漢字は読むことができたが、自分の手で漢字を書くことができなかった。レポートに何千字も漢字を書いているうちに、大体の漢字をそらで書けるようになっていた。この『灯』の原稿もほとんど辞書を引かずに書くことができた。さらに私は、学習に取り組むなかで、ものを考える力と考える習慣がついたと思う。自学自習を続けるなかで、レポートの題意を正しく読み取ったり、正しい答えを考えたりするうちに脳が活性化したのだろう。今にして思えば、入学当初の私はものを考えずに行き当たりばったりの行動ばかりしていたように思う。考える力がついたことで、人とのコミュニケーション能力も向上した。会話する時相手の人の気持ちを考えるように心掛けてからは、人にいやな顔をされることが少なくなった。要するに、当たり前のことができるようになったということだが、私にとっては大きな進歩だ。そしてこの3年間で私にとって一番多きな変化は、自分の人生を肯定的に受け止められるようになったことだ。以前の私は、かつて自分が家に閉じ籠もっていた過去や、能力の低さから叱られてばかりいた出来事を忌まわしいこととしか思うことができず、そのような忌まわしい人生を送ってきた自分自身もまた忌まわしい存在だと思っていた。しかし最近になって、かつて家に閉じ籠もっていたからこそ、今ここに他の誰とも違う人生を歩んできたこの私がいるのであって、叱られながら努力してきたからこそ精神的に強くなることができたのだと、過去の出来事を、自分の人生を形作るかけがえのない思い出として受け入れて、自分自身を個性ある一人の人間として前向きに受け止められるようになったのだ。
 卒業後、私がどのような道へ進もうとも、その先にはきっと多くの困難が待ち受けていることだろう。しかし私はそれらの困難に恐れることなく立ち向かい、乗り越えていくことができるだろう。何故なら、私は知っているから、どんな苦境の中にも必ず希望の光があることを。そして、人生において直面するあらゆる出来事は、やがて世界に二つとない大切な思い出になるのだということを。
         
                                               H18年度卒業生


                            卒業

 私はこの度山口高校通信制課程を卒業できることになりました。編入という形で入学してようやく卒業という人生の区切りをつけることができるので、けじめがついたと自分では納得しています。前の学校は自分で進学することを選び、それを途中で投げ出してしまいました。そのことが今まで私の心の中にずっとひっかかっていました。でも、山高で残りの単位を取り卒業できるので、心の中にひっかかりを持っていた気持ちの整理をようやくすることができます。
 山高通信制のモットーは「やすまず あせらず あきらめず」です。私は山高に入学してから早く卒業しようとあせり、うまくいかなくなったため休んでしまいました。モットーの「あせらず」と「やすまず」という二つの約束を破ってしまった訳です。しかし、最後の「あきらめず」だけは約束を守りました。何とか卒業しよう!その気持ちがあったのでこの日を迎えることができたのだと思います。このモットーは簡単なことばのようですが、通信で学んでいる人にとっては大変意味のある大切なことばです。最悪二つ約束を破っても最後の「あきらめず」さえ守れば、道は開けてくると私自身の経験から証明することができます。あきらめないことが大事であると身をもって体験したことが、山高で学んだ一番の教訓だったと思います。
 最後に、支部担任の先生をはじめ、進路の関係でお世話になった先生や諸先生方のおかげで無事卒業することができたことをとても感謝しています。ここで学んだことは私の人生においてかけがえのないものです。これを糧に社会で頑張っていこうと思います。
 本当にお世話になりました。ありがとうございました。

                              H19年度卒業生


                     有意義な「まわりみち」

 入学して間もない頃、ぼくは自分が卒業する姿などとても想像できなかった。しかし、こういう形で卒業文を書いているとなれば、自分も卒業に手の届くところまでやってきたことを少なからず実感する。
 ぼくがこの通信制に入学したのは、今からもう八年も前のことになる。中学を卒業してすぐの頃だったので、まだ十五歳の春だった。ぼくは中学時代の登校拒否がたたって、同年代の人が学ぶべき内容に全くついていくことができなくなっていた。自分が不登校だったことについては別に後悔していないが、本来中学でやっておかなければならなかった学習内容に全く手をつけていなかったことは、今にして思っても悔やまれるところだ。(余計な話だが、ぼくはただの一日も登校することなく中学を卒業している)
 そんな訳で、これからどうなるものかと不安で仕方のなかったぼくにとって、通信制の存在は非常に有難いものだった。中学の学習内容を自宅でやりつつ、それと同時に高校生としての勉強もできる。スクーリングにしても日曜日にあるわけだし、レポートのことはあっても、これらを同時進行させることは可能だと思えた。
 最初のうちは苦労が絶えなかった。国語や社会ならなんとかレポートを進めることはできたが、ぼくの前に大きな壁として立ちはだかったのは英語と数学だった。この二つだけはどうしても前に進めることができなかった。この二教科は中学時代に基本を教わるものであり、そこを知らなければ手のつけようがない。特に数学に関して言えば、ぼくはこの段階では算数しか知らなかったのだから、高校レベルの数学などほとんど記号にしか見えなかった。英語にしても、アルファベットの順番が分かるくらいで、単語など何一つ知らなかった。仕方なくこの二つは後回しにして、それ以外の科目から単位を取っていくことにした。他の教科にしても簡単にはいく筈もなく、結局一年目は僅か一科目しか単位は取ることができなかった。二年目、三年目もあまり進歩がなく似たような状況が続いた。「もう卒業なんて無理なのではないか」こんな考えも頭をかすめ始めていた。だが、同時に「まだ自分は本気でやってないのではないか」という思いもあった。実のところ三年目が終わっても、英語と数学だけは手つかずの状態が続いていたからだ。ぼくはやれるだけやってみようと決心した。家の中に埋もれていた中学の教科書を引っ張り出し、一ページ目からやり直してみた。すると不思議なことに意外なほどスムーズに理解できた。ところどころ詰まったりもするのだが、あの十五歳の時のぼくの前に立ちはだかった大きな壁は、少しだけ小さくなっていた。思い当たる節はある。ぼくは英語と数学のレポートと教科書を見た時、そのあまりの難しさに、トライしてみること自体を投げ出してしまっていたような気がする。
 入学当初少しは持っていた筈の、中学の学習内容をやりつつ……という部分すらどこかへ飛んでいってしまっていたのだ。「急がば回れ」という言葉があるが、この言葉の大切さをぼくはこの時実感した。目の前の大きな壁をいきなり飛び越えようとしても上手くはいかない。少し後ろに下がってから助走をつけて飛び越えようとしたなら、もしかしたら壁を越えられるかもしれない。たとえそれがまわり道になるとしてもその方が実は近道になるのかもしれない。事実ぼくはそう決心してからその次の年には英語も数学も同時に単位を取ることに成功していた。以降毎年コンスタントに六科目くらいずつ単位を取り続け、ようやく八年にして卒業資格を得るに至った。高かった壁を越えてからのぼくはそれまでのつまづきがまるで嘘であったかのようにスムーズだった。何か自分の中で大きな変化が起こった訳ではない。一つだけ変わったとするなら、それはまわり道をする勇気を持てたということだろう。普通の高校なら三年のところを、ぼくは五年も多くかかってしまった。でも、ぼくはあえてこう表現してみたい。
 ぼくはこれから先を生きていく上で、五年間の非常に有意義な「まわり道」をしたのだと。

                                                H18年度卒業生